湘南PEOPLE VOl.39 武藤由紀さん 

 深く深く海底に向けて潜っていく。息を止めて、まるで魚のように尾びれをくねらせながら。映画『グランブルー』*1で描かれたようなフリーダイビングの世界は、わたしたちにとっては異次元の出来事だったので、その世界へと挑戦する女性が近くにいると聞いてとても興味を引かれました。「フリーダイビング(一息で海に潜る深さ、距離、時間を競う競技)」のインストラクター、武藤由紀さんは、葉山に住み、子供から大人まで、初心者から上級者までの生徒に「素潜り」を教えるレッスンのかたわら、自らのトレーニングとして、1年中、毎日のように、海に潜っています。

main.JPG

 昨年末から再開したトレーニングを経て、4月にエジプトの大会に出場、9月にはフランスのニースで行われる世界大会に日本代表の一人としてエントリーしています。人間の極限に挑むエクストリームな世界と葉山での日常を行き来する武藤さん。7月の半ば、彼女が指導する初心者向けのクラス*2に参加して話を聞かせてもらいました。

「潜ること」への興味の扉をどんどん開いて

workshop.JPG

 潜りに関する座学ののち、海でのクラスを受けて思うのは、素潜りは人の潜在的な能力や好奇心に気づくきっかけになるということでした。スノーケル、マスク、フィンをつけることで、魚と同じように水面を漂うことができ、しばらく息を止めて深くまで潜ることができます。チャポンと海の中に沈んでみると、聞こえてくる音が変わり、体を取り巻く水の圧力が感じられます。空を飛んでいるような浮遊感に身を任せ、体をひるがえして見上げる水面は、水と空気の境目がキラキラ光、海の底は遠く、魚たちがそれぞれの営みに夢中なのを眺めていると、普段生きている空間が別世界となり、なんともいえない安らぎに包まれるのです。まるで胎児の頃に浮かんでいた水の記憶が呼び戻されるかのようです。

 武藤さんは、素潜りを教えることは、「みなさんの潜ることへの興味の扉を開く役割」と言います。海が近くにあっても素潜りを習う機会がなかった人たちに、彼女が媒介となり素潜りを巡り会わせる。その途端、「素潜りに目覚めてしまう人も多くて、火をつけてしまった気がします」と嬉しそうに目を丸くします。自身のスクール「リトルブルー」、葉山のアウトドアフィットネスクラブ「BEACH葉山」、地域の小学生を対象としたアフタースクール「とびうおクラブ」でインストラクターを務める彼女は、「ムッチー」の愛称で知られ、一度でも教わったことのある生徒は今や数百人という数に上っているはずです。

whitwfin.JPG


4年ぶりに選手活動を始めるにあたり

walk on grass.JPG

 そんな彼女に会って、最初に驚くのは、身長150cmちょっとという小柄な体。「この体で人間離れした深さを!?」と感心していると、さらに空手の有段者で、4年前までは都内で超多忙に働くIT関連のサラリーマンだったという話が飛び出します。そのさまざまがバランスして、武藤さんの理解力、説明力、身体能力、精神力、そして人間力に繋がっていると思うと妙に納得がいきます。週末だけインストラクターとして通っていた葉山に、いよいよ会社勤めを辞め移り住んだのが2016年。葉山に来てからは競技の世界から遠ざかっていましたが、昨年、再び世界大会に挑戦することを決意しました。「教えていくうちに、自分も触発されて、もっと深くフリーダイビングに関わってみようと思えるようになったのかもしれません」と。
 決意をすると同時に世界トップレベルの選手Sara Campbellサラ・キャンベルにトレーニングを受けたいとメールで直接アプローチ。数年ぶりの選手活動への復帰にあたり、「いいコーチについて、徹底的にやり直したい」という思いでした。サラは昔からの憧れであり、なんと身長が武藤さんとほぼと同じくらいの小柄な女性。何より、ヨガ・瞑想のインストラクターでもあるサラの人間性が武藤さんの心を引きつけました。

meditation.JPG

「競技に関していえば、8割がメンタルなんです。ちょっとでも怖いと思うと潜れない。失敗につながります。それが手に取るようにわかるのもフリーダイビングの面白さです。人間の体というのは、心にすごく繋がっている。ほんのささいな緊張感、エゴ、こうしてやりたいという気持ちがあることで、出来ることが出来なくなる」と、自らの経験を振り返るように話します。
「サラは、自分をすごく客観的に、冷静に見られる人で、ニュートラル。いい悪いという見方をしないで、あるがままを受け入れている」。そのメンタリティに影響を受け、ただ潜るだけで楽しいという精神から多くを学びました。

「伝える」という活動は自分のミッション

interview.JPG

 究極の素潜りを学び、挑戦する武藤さんは、一方でそれを「伝える」という活動を自分のミッションのように感じると言います。例えば、子供達には、潜る深さは重要ではなくて、自分と向き合うことの面白さを伝えています。寒さや風を嫌がる子供には、「水の中は静かだよと」俯瞰する視点を教え、「怖いことって何?」とつきつめていくことで克服への道を探す。それは彼女自身が通ってきたプロセスで、そうして伝えることは潜ることをはじめ、生き方すべてにつながっていきます。
 「特に子供は驚くほど早く吸収してくれる分、こちらも真剣勝負になります。自分がしっかりと腹落ちしていることでないと何も言えないですね」。そして自然を通して学ぶことのひとつとして、「ものごとは、自分でコントロールできることと出来ないことがあること。それを受け入れながら、合わせていくこと」を大切にしています。

「そこに100%注げるかどうかに尽きます」

diving.jpg
Photo by Michael Kaziales April 2019 Dahab

 「世界大会に行くからにはいい結果を出したいけれど、それより大切なのは『そこに100%の情熱を注げるかどうか』だと思います」と迷いのないクリアな目線。「自分が何かにトライすることが子供達やみんなへのメッセージにもなれば嬉しい」と続けます。
 武藤さんがこんなふうに感じるようになったのは、教えるということを始めて、一生懸命やっている人を見る場面が多くなったのが大きな要因です。子供達もそうだし、全く泳げなかった年配の女性がドルフィンスイムをどうしてもやってみたいと熱心にプールに通い、見事に夢を叶えたり。それぞれの姿に触発され、潜在意識で「自分もやろう!」と思ったのかもしれません。「人間、やりたいと思ったらできる。パッション以外に必要なものはないのかもしれません」。人がパッションで変わるのを実際に見てきたから確信をもって言えるのです。

五感で海に触れるチャンスを増やしていく役目を

walking.JPG

 何よりもまず、強い意志とまっすぐに真剣であること。武藤さんの姿勢はいつもそうであり、周りにいるそういう人たちに触発されています。「シェアしているようで、シェアされている。じぶんが教え始めてから、学ぶことに対しても貪欲になりました」と。「素潜りはスポーツとして上達することだけが目的ではなく、水に入るのが気持ちいい、という感覚だけでもいいと思います。五感が喜ぶというか。日常では感じられない身体の「センサー」が発動する感覚、これが、いちばんの素潜りの魅力かなと思います」。
 武藤さんに教わった一人として、素直にその言葉が入ってきます。使っていなかった能力の扉を開かれ、感覚が研ぎ澄まされる。「素潜り」を知ることでそんなギフトをもらったような気分になりました。武藤さんは、まるでイルカのように、わたしたちを海に導いてくれます。いいも悪いもなく、無邪気に真面目に。9月の挑戦は、「そこに100%注げる」彼女であることを祈り、そして笑顔で戻ってくる姿を想像して、エールを送りたくなる。きっと彼女の経験は、わたしたちにとっても貴重なものとなるはずです。

interview & text : sae yamane
photo : yumi saito
coordination : yukie mori

武藤由紀  むとうゆき

Apnea AcademyAsiaフリーダイビングインストラクター。 2011年からフリーダイビング日本代表選手として世界大会出場。CWT(フィンをつけて潜る競技)では水深-61mの公式記録を有する。フリーダイビング&スキンダイビングスクール「リトルブルー」を主催。選手としてトレーニングのかたわら、北は知床の流氷から、南の珊瑚礁まで様々な海を素潜りし、インストラクターとして素潜りや水の世界、海の素晴らしさを伝える活動をしている。
<海洋競技公式記録>
 CWT:公式記録-61m (フィンをつけて潜る種目)
 FIM;公式記録-47m(フィンをつけずロープを手繰って潜る種目)
 CNF;公式記録-32m(フィンをつけず平泳ぎで潜る競技)
little blue
*1『グラン・ブルー』(Le Grand Bleu)は、1988年に公開され大ヒットとなったリュック・ベッソン監督の映画。フリーダイビングの世界記録に挑むダイバーの物語。レジェンドダイバー、ジャック・マイヨールをモデルにしたフィクション。
*2 初心者向けの素潜りのクラスは、スノーケル、マスク、フィンの付け方から、水面での泳ぎ方、潜り方を習うもの。深く潜るフリーダイビングとは違うものになります。
Follow me!