湘南PEOPLE VOl.52 名取美穂さん

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葉山、一色の浜辺には、夏の二ヶ月間だけ海の家が立ち並びます。その中の1軒。自然の風景に馴染むように佇む竹の建築、ピラミッド形の屋根が目印のBlue Moonは、その趣と集まる人々の独特な感性が人気を呼び、毎年大勢の人で賑わいます。2021年も7月の海開きと共に営業が始まりました(*1)。昨年はコロナ禍の影響で営業を見送り、今年25回目の夏を迎えるこの海の家に、長年の常連客や仲間たちが足を運び、待っていましたと言わんばかりに、決まり文句、「明けましておめでとう!」と挨拶を交わします。長引くコロナ禍で以前のような自由な振る舞いはできないけれど、この場所での再会の嬉しさを分かちあう様子があちこちで見られます。広い空間の端のテーブルで、そんな雰囲気を味わいながら、名取美穂さんは静かに座っていました。

海の家、Blue Moonの発起人のひとりとして

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26年前、「エコロジー」や「サステナブル」が当たり前となった今を予言するかのように、いち早くそのコンセプトのもとに活動を始めたBlue Moon。一色の海を大好きな仲間が集まり、「みんなが居られる場所をつくろう」という思いから、それぞれが出来ることを持ち寄ってスタートしたプロジェクトでした。ずば抜けた発想力をもつ仲間が最初のコンセプトを提案。建築を担当する仲間、資材を調達する仲間、その中でロゴのデザインやショップカード、チラシを作る仲間として参加したのが、美穂さんでした。20代だった6人の男女がそれぞぞれの仕事の傍で、オフの時間と労力を費やし手作りで進められたようです。初期のBlue Moonの建築には、草月流の展示会で使用されたのち廃棄される予定だった竹を貰い受け使いました。彼らの思いが託された海の家の象徴としてピラミッドの屋根が設けられ、その下に厨房とバーカウンターだけの小規模だけれど、心地よい空間が生まれました。
 
 みんながボランティアで働き、仲間が客として集い、ときには手伝い。その根底にあったのは自然との共存、地域とのつながりというコンセプトです。6人のうち半分以上は、日本と海外の文化の間に生まれ育った仲間でした。Blue Moonは無国籍で自由で、訪れた人は垣根なく交流できる場所。バブルの名残のある90年代後半に、フードのメニューで「オーガニック」や「地産地消」を発信する店は新鮮な価値観に出会える魅力に溢れていました。何より、波の音を聞きながらそんな体験ができるのですから。美穂さんは当時を振り返り、「仕事は独立したてで、とにかく『なんでもやります!』と忙しくしていたのですが、夜家に帰ってからタイカレーやジャージャー麺を仕込み、朝バイクを飛ばして届けていました。徹夜しても海にいられることが楽しかったんです」と。

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 友達が友達を呼び、年々賑わいを増していくBlue Moon。その一角に、ある年から「バーンロムサイ」のブースが登場しました。タイのマーケットで仕入れてきたビーチライフに似合う色鮮やかなドレスやシャツが並び、スタッフも客もワイワイと楽しんで選んでいました。「バーンロムサイ」は、タイのチェンマイにあるAIDS孤児のための施設だということをそこで初めて知った人も多かったかもしれません。HIV感染に対する正しい知識が日本ではさほど広まっていなかった時期です。そこでの売り上げは施設の運営費のサポートになるということがブースの横に貼ってあるフライヤーでわかりました。その施設を運営しているのが、美穂さんの母、名取美和さんでした。1999年に設立された施設の運営を美穂さんは自らの仕事の傍、手伝っていたそうです。

チェンマイへの旅が人生を導くことに

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 話は遡り、Blue Moonのプロジェクトが始まったのと同じ頃、3年間務めた会社を辞めてフリーになった美穂さんは、タイのチェンマイに旅に出ます。旅先では、親しくしていた二人のドイツ人の方々を訪ねる目的もありました。ひとりは通っていたドイツ学園のスクールドクターだった女性。リタイアして、現地でAIDSの末期患者の治療に当たるボランティアドクターとして働いていました。当時は治療薬もなく、ただ看取るしかない患者の手を取り、痛みを軽減する呼吸法や瞑想のワークショップを開き、消化器の弱った患者に食事法を伝え、死を迎える心の準備をサポートしていたそうです。そんな姿を目の当たりして、美穂さんはそれまで味わったことのない衝撃を受けます。

 その一方で、訪ねたもうひとりの人物は、美穂さんが勤めていたスイスの生地メーカーのカーテンマイスターと呼ばれる男性。現地では工場長を勤めていた彼に、ローカルの市場や豪華な邸宅へと案内され、そこで美穂さんは彩り豊かな生地や木調の家具、調度品に触れ、「なんて美しくて素敵な文化なのだろう」と心惹かれます。美穂さんの口調から、そこで目にしたものの魅力が想像できます。

 大好きなドイツ人のふたりに会おうと、軽い気持ちで遊びに行った美穂さんにとって、チェンマイでの2週間は人生を揺り動かされるほどに濃い時間でした。その旅がきっかけとなり、美穂さんはもとより、母、美和さんと「バーンロムサイ」の繋がりが生まれます。人間の生死に触れる深い心の世界と美しい手仕事がもたらす浮世の雅。その微妙に「チェンマイは最高に素晴らしい土地」と感じた美穂さんの言葉を受け、美和さんは現地に赴き長期の滞在となります。

AIDS孤児のための施設「バーンロムサイ」の立ち上げ

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 美和さんは若い女性の末期患者と出会い、乳飲み子を残して去りゆく彼女の思いを汲み、病床でもできる手仕事を自らのものづくりのために依頼します。交流を重ねるうちに、「わたしに何かできることがあるのでは」という思いで、「バーンロムサイ」を立ち上げること決意したそうです。16歳でドイツに渡り、デザインを学び、カメラマンやコーディネーター、アンティークショップの店主として活躍していた美和さんの行動力をもって、人の助けを得、人材を集め、開園に漕ぎ着けます。ただ本当に大変だったのはそれからだと、日本とタイを行き来しながらその様子助けてきた美穂さんは振り返ります。医療関係のバックグラウンドもなく「思い」だけで飛び込んでしまったプロジェクト、「もう一度と同じことをしろと言われたら、お断りするかもしれません!」とため息混じりに笑います。

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 HIVに母子感染した孤児たちの生活施設として開園した当時は、エイズが猛威をふるい治療薬も行き渡らず、国立孤児院から迎え入れた乳幼児から幼児までの30名の子供たちのうち、3年の間に10名が命を落としました。とても悲しいことでした。施設は常にスタッフの人員不足で、子供達の世話はもちろん、車の運転も食事の用意もすべてその少ない人数でこなし、てんてこ舞いだったと言います。寄付だけで運営費を賄うことにも限界があり、美和さんと美穂さんは、自分たちで資金を調達する手立てを考えます。そのひとつの事業がタイの手仕事を生かした衣類や小物などのプロダクトを扱うブランド「banromsai」、そしてもうひとつの事業が施設の隣に併設されたコテージリゾート「hoshihana village」でした。

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banromsaiプロダクツ

 抗HIV治療薬の普及により、2002年11月以降、施設の子供は一人も亡くなっていません。投薬を続けることで子供たちは普通の生活を送ることが可能となりました。また母子感染を防ぐことも出来るようになったことで、現在はHIVに感染はしていないけれど、さまざまな理由で孤児となった子供や家族と一緒に生活できない子供の受け入れも行なっています。開園当初、民間療法でもなんでも効き目があると聞けばとにかく取り入れていた痛切な時期を思い、美穂さんは今の状況をしあわせだと語ります。間違った情報や知識の欠如により最初はひどかったHIV感染者に対する差別も、23年の月日を経て、バーンロムサイのある村ではほぼなくなり、むしろ啓発活動の役割をもつコミュニティセンターのような存在へと変わりつつあるのだとか。

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hoshihana village

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子供たちの「実家」を守るために

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バーンロムサイは、単に子供の世話だけでなく、病からの健康管理の指導や将来の進路の相談、卒園した子供たちの教育費や生活費の支援、体調を崩した子供たちへのケアなど、様々な役割を担っています。「育った子供たちにとってここは『実家』のようなもの。仲間に支えられて繋がっている大きな家族です」。そして「HIV治療薬があるといっても完治はしません。毎日12時間おきに飲み続けなければならない。飲み忘れると抗体ができてしまう。一生その追いかけっこなんです」と、ひとりひとりの姿を思い浮かべ、卒園した彼らの健康を親身に思う気持ちが、美穂さんの瞳から伝わってきます。

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banromsai 工房・縫製場

コロナ禍の影響で、バーンロムサイの自立のための事業として稼働していた縫製工場は昨年運営を一旦ストップしました。hoshihana villageは国内向けには開けているもののほぼクローズの状態だと言います。「ただ施設(ホーム)だけは死守したい。子供たちの『実家』を守るために、諦めることは諦め、再びスタート地点に立って、そのために頑張ろうと思っています」と美穂さんの声に熱がこもります。大切なものを守る。「先行きの見えない世の中だからこそ、自分の目標を信じ、人を信じてやるしかない」と。

  昨年末に、心機一転、オフィスを葉山、森戸神社の近くの古民家に移し、現在はタイでの生産に代わり、日本の作家や職人にものづくりを依頼してアパレルブランド「banromsai」を継続しています。まだまだ助けが必要な現地の子供たちの様子や活動の報告を支援者のみなさんに伝えるニュースレターには、新たにプロダクツの通販の情報も加わりました。ものづくりにかける気持ちの背景には、「SDGs(持続可能な開発目標)」*2への取り組みもあります。

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banromsai 日本麻のシャツ

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banromsai 秋冬コート

「生きていきやすい社会をつくりたい」

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「どんな個性の人でも、生きていきやすい社会をつくれたら」と美穂さんは言います。HIV感染者も、たとえばLGBT*3も、社会的に弱い立場にある人があえて言葉に出さなくても、それが自然で当たり前で、しあわせに楽しく生きられる世の中を。日本人でありながら、異国文化の教育を受け、ある意味一般的ではなかった幼少時代からの自らの経験も、その思いの核にあるのかもしれません。母、美和さんと共に作り上げた 「バーンロムサイ」は、あり方も価値観もまさにそんな世界なのでしょう。親娘がこの施設を運営するために助けを求めたとき多く寄付や人の手や心が集まり、そのことに感謝と信頼を感じています。

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 20数年前、二十代だった美穂さんのチェンマイの体験は、時代の流れを喚起する「種」となり、必死に手探りで育てているうちに、時代が大きく代わって今に至っています。改めてスタート地点に戻ったという美穂さん。直感を研ぎ澄ませてキャッチする「種」が、10年後、20年後にどのように花開くのか。たのしみであり、その世界で共に過ごす仲間でありたいと強く思いました。

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interview & text : sae yamane
photo : yumi saito
coordination : yukie mori 

*1 葉山、一色海岸の海の家Blue Moonは国による神奈川県緊急事態宣言の発動に伴い、葉山の海水浴場の開設休止のため、2021年夏は、8月3日をもって終了

*2 SDG’s(持続可能な開発目標)2016年から2030年までの15年間で世界が達成すべきゴールを表したもの。17の目標と169のターゲッットで構成されている。17の目標とは、1. 貧困をなくそう、2. 飢餓をゼロに、3. すべての人に健康と福祉を、4. 質の高い教育をみんなに、5. ジェンダー平等を実現しよう、6. 安全な水とトイレを世界中に、7. エネルギーをみんなにそしてクリーンに、8. 働きがいも経済成長も、9. 産業と技術革命の基盤をつくろう、10 .人や国の不平等をなくそう、11. 住み続けられるまちづくりを、12. つくる責任つかう責任、13. 気候変動に具体的な対策を、14. 海の豊かさを守ろう、15. 陸の豊かさも守ろう、16.平和と公正をすべての人に、17. パートナーシップで目標を達成しよう

*3 LGBT 性的少数者(セクシャルマイノリティ)を表す言葉のひとつとして使われる。Lesbian(レズビアン)、Gay(ゲイ)、Bisexual(バイセクシュアル)、Transgender(トランスジェンダー)の頭文字をとって組み合わせた言葉

名取美穂さん Miho Natori

日本国内のドイツ系インターナショナルスクールで幼少期から高校までを過ごし、その後、ドイツでコミュニケーションデザインを学ぶ。グラフィックデザイナーとして広告代理店で働き、1993年に帰国。スイスのファブリックメーカーのマーケティング部に勤務したのちに独立、飲料や化粧品などのパッケージデザイン、グラフィック、内装などを手がける。1999年、母、名取美和さんがタイ北部のチェンマイ郊外に、HIVに母子感染した孤児たちの生活施設「バーンロムサイ・チルドレンズホーム」を設立。開園当初からクリエイティブ面を担当する。施設の運営をサポートするプロダクツ生産&販売、ゲストハウス「hoshihana village」などでデザインに携わる。2011年からNPOバーンロムサイジャパン代表として日本での活動に従事する。祖父は、1930年代、日本で初めて「報道写真」の理念を啓蒙し、国内外で活躍した著名な写真家であり、編集者の名取洋之助氏。


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